昭和40年4月、この学校は岸和田市立八木小学校分校として創設されました。月日の経つのは早いもので4月、5月、6月の3ヶ月は知らぬ間に過ぎ、あと数日で第1学期が終わろうとしています。その間PTAの組織づくりもでき、既に活動も開始され、この度PTA新聞の創刊号が発行される運びとなりました。お慶びを申し上げるとともに、この機会にあらためてご挨拶を申し上げたいと存じます。新設校の開設については児童数の増加と遠距離通学に加えて昨今の危険な交通状況等諸般の情勢から地元町民各位の熱意が実を結んだものと思いますが、市当局、議会、教育委員会のご理解と加守田建設委員長さん始め、各委員さんの格別のご尽力の賜と深く感謝しなければなりません。去る2月、私が新設校の設立事務取扱を拝命してから何回か建設委員会に列席してまいりましたが、その都度熱心な会議と常に会議の結果が実行に移されて行くのを知るにつけ、そのご苦労の程が偲ばれます。只今第1期工事が終わったところで、完成までには引き続き2期3期の工事が続けられますが、校舎の建築、運動場の整備、水路の改修等山積する問題の解決に今後とも何かとご苦労をおかけすることでございますが何卒よろしくお願いいたします。PTAの組織づくりについては、各町会長さんを煩わし、町代表の実行委員さんをご依頼申し上げ、その人達によって規約の草案及び役員候補の推薦等種々の手順が進められ、5月27日に2階、3階の廊下を使って異例の総会を開き、規約の承認と苅谷会長さん始め各役員が決定し、6月18日には学級委員会を開いて、各専門部への所属、学級委員長の選出及び学年委員長の決定がなされ、また、母親代表として副会長稲垣さんの外に幼稚園の田辺さんが決まり、いよいよ活発な活動が開始されるようになりました。PTAの結成に至るまでには4月下旬から5月上旬にかけての連休や、6月の農繁期等のため幾分時期的には遅れた感もありましたが、無理なく順調に組織づくりができたことを喜んでいます。その間にもPTAとしての実質的な活動がなされ、学校に来られたお母様からの数々のご協力は枚挙にいとまのない位で、特に在学する子どもが小さいため、今なお続けられている校舎の清掃奉仕についてはPTAの大きなご協力として感謝しています。何と申しましても新しくつくられる学校であるだけに、今後ともPTAの皆さまの絶大なご協力を得なければならないことが多かろうと思いますがよろしくお願い申し上げます。
翻って我々の学校生活は、雨の日は泥んこの通学路、梅雨期とは言え雨の降る度に運動場に水が溜まって戸外に出られる日が少なく、また、便所の不便等新設校でなければ体験できないいろいろのことがありますが、学校建築としては珍しい、そして立派な蜂の巣型6角形の校舎で工事が終わって完成する日の喜びを待ちつつ、これからの苦労を楽しい苦労として「環境人をなす」と申しますが、職員お互いのためには楽しい職場であると同時に、子ども達のための楽しい学園づくりと、よい伝統と校風の基礎作りに懸命の毎日を送っています。 (昭和40年7月発行PTA新聞第1号記載 南主任挨拶)
校章に使われている3つの六角形は、本校の蜂の巣型校舎を表すとともに、「知」「情」「意」を意味し、中央の円はいずれにも偏らず融和された状態を表しています。また、三つ又模様は、本校の校名の由来である「条里制(※注)」にちなみ、早苗の形を表し、蜂の巣型校舎から苗がすくすく伸びていってほしいとの願いが込められています。 |
南 三千雄 初代校長
昭和40年に市内18番目の小学校として新条小学校はスタートしました。当初は八木小学校分校(1〜3年生391名)としての位置付けでしたが、昭和41年に八木小学校から分離独立し、新条小学校となりました。開設当初は校名の由来につながる条里制痕跡が残る田畑の広がる農村地帯でした。
幼稚園教職員
教諭 境 三美
教諭 末原 登美子
1年 | 1組 | 2組 | 3組 | 4組 | 学年計 |
48名 | 47名 | 49名 | 48名 | 192名 | |
2年 | 1組 | 2組 | 3組 | 学年計 | |
51名 | 50名 | 50名 | 152名 | ||
3年 | 1組 | 学年計 | |||
48名 | 48名 |
新条小
(※注)条里制は、日本において古代から中世後期にかけて行われた土地区画制度です。ある範囲の土地を約109m(1町)間隔で直角に交わる平行線により区分し、1町四方からなる基本単位を「坪」といいました。そして、基本単位である坪を6×6に並べた区画は「里」と呼ばれ、里における各々の坪は1から36まで番号表示され、例えば一の坪などと呼ばれました。また、里の横列を「条(じょう)」、里の縦列を「里(り)」と呼んでいました。
教諭 出口 万里子
教諭 与野 浩子
教諭 原田 カズエ
教諭 松浦 喜代一
創立の頃の学校周辺 見渡す限り田畑が広がっていました。
入学式に来た親子
第1回入学式(昭和40年4月1日) 当時、体育館(講堂)はまだありませんでした。そのため、式を運動場で行う予定でしたが、突然の悪天候により、蜂の巣校舎廊下で立ったままで行いました。また、教室には机や椅子もまだ配備されていませんでした。
創立当初は分校のため校長 南 三千雄先生は主任という肩書きでした。
蜂の巣校舎廊下での入学式
分校時代の幼稚園公印
建設委員会会合 於 中井町会館
建設委員会会合 於 中井町会館
PTAの立看板PTA名に八木分校の名が使われています。
創立時の教職員で記念撮影
第1回始業式(昭和40年4月8日)水田跡の残る運動場で始業式を行いました。
教室に入った児童と保護者
教諭 根来 義清
主任 南 三千雄
開校記念式(昭和40年4月12日) 岸和田市長はじめ、数多くの来賓をお招きし、盛大に行われました。
創立当時の回想(1期卒業生) 当時3年生まで新条小学校へ転入してきました。見る物全てが物珍しく映りました。六角形をした蜂の巣校舎、教室。教室の床は、前の学校では板張りだったのが、きれいなPタイル、それにベランダがありロビーはとても広く感じられ、目新しさに休み時間にはよく校舎内をうろうろしたものでした。飼育小屋には、あひるやうさぎ、小鳥が飼われていました。周りの様子は現在とはまるで違います。今のように住宅も多くなく、田や畑の中にぽつんと建っている感じで、夏にはカエルの大合唱がよく聞かれたものです。通学路も今のように舗装されておらず、雨が降った日には用水路の水が溢れ水浸しで池の中に橋を渡したような状態でした。
(創立20周年記念紙より)
PTA草抜き奉仕作業 夏休みPTA奉仕作業の様子です。草が一面に生え、大変な作業でした。
創立当初の蜂の巣校舎
初代南校長の回想 昭和40年4月1日入学式のこと。翌日の新聞見出しに「春雷・豪雨・突風」と大きな文字で書かれたように、それはそれは悪天候下の入学式でした。講堂がなく、青空入学式の準備が完了した頃から大粒の雨が降り出し、一天俄に曇り、大きな雷が鳴り、激しい強風。外では式ができず、急遽、テント内の教科書、黄色い帽子他準備物をずぶぬれになりながら校舎内に運び込み式を行いました。
創立当時の回想(元校務員) 第1回目の入学式当日のことは、今でもはっきりと覚えています。ちょうど雨が降って、道路の溝から水が溢れ、グランドが水浸しになって池のようになっていました。私は子どもたちが学校に入れるように、戸板や材木や古ゴザを敷いて通路を作り、やっと入学式を済ませました。雨の降る度に、そのようなことの繰り返しが続きました。(創立20周年記念紙より)
創立の頃の学級編成
幼稚園教職員
校務員 石川 正幸
教諭 倉井信夫
教諭 後谷 定彦
1年 | 1組 | 2組 | 3組 | 4組 | 学年計 | |
48名 | 49名 | 48名 | 47名 | 192名 | ||
2年 | 1組 | 2組 | 3組 | 4組 | 5組 | 学年計 |
40名 | 40名 | 40名 | 39名 | 39名 | 198名 | |
3年 | 1組 | 2組 | 3組 | 4組 | 学年計 | |
38名 | 38名 | 38名 | 37名 | 151名 | ||
4年 | 1組 | 2組 | 3組 | 4組 | 学年計 | |
37名 | 36名 | 36名 | 37名 | 146名 | ||
5年 | 1組 | 2組 | 3組 | 学年計 | ||
45名 | 45名 | 45名 | 135名 |
1年 | 1組 | 2組 | 3組 | 4組 | 5組 | 学年計 |
40名 | 42名 | 41名 | 42名 | 41名 | 206名 | |
2年 | 1組 | 2組 | 3組 | 4組 | 学年計 | |
48名 | 47名 | 47名 | 47名 | 189名 | ||
3年 | 1組 | 2組 | 3組 | 4組 | 5組 | 学年計 |
39名 | 40名 | 41名 | 39名 | 38名 | 197名 | |
4年 | 1組 | 2組 | 3組 | 4組 | 学年計 | |
44名 | 44名 | 30名 | 32名 | 150名 | ||
5年 | 1組 | 2組 | 3組 | 学年計 | ||
48名 | 49名 | 48名 | 145名 | |||
6年 | 1組 | 2組 | 3組 | 学年計 | ||
46名 | 46名 | 46名 | 138名 |